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August 0981996

 階下の人も寝る向き同じ蛙の夜

                           金子兜太

京で暮らすようになってから、蛙の声などほとんど耳にしたことがない。少年期には山口県の山奥で暮らしていたので、蛙はごく身近な生物だったというのに。作者は、客として二階に布団を敷いてもらったものの、なかなか寝つけない。蛙の声しきり……。そんななかで、ふと気づいたおかしみである。兜太の力業も魅力的だが、初期のこうした繊細な神経の使いようも面白い。『少年』所収。(清水哲男)


June 0461997

 明日は又明日の日程夕蛙

                           高野素十

にもかくにも今日の仕事を消化して、作者はしばし夕蛙の鳴き声に耳を傾けている。ホッとしている。明日もまた忙しいが、明日は明日のこととして、今日はもう仕事のことは考えたくないという心境だ。このように、昔は蛙たちが一日の終りを告げたものだが、いまの都会では何者も何も告げてはくれない。もっと言えば、一日の終りなどは無くなってしまっている。だから、明日の日程のために眠ることさえできない人も増えてきた。過労死が起きるのもむべなるかな。こんな世の中を愚かにも必死につくってきたのは、しかし私たちなのである。『雪片』所収。(清水哲男)


April 2141999

 古池や蛙とび込む水の音

                           松尾芭蕉

句に関心のない人でも、この句だけは知っている。「わび」だの「さび」だのを茶化す人は、必ずこの句を持ち出す。とにかく、チョー有名な句だ。どこが、いいのか。小学生のときに教室で習った。が、そのときの先生の解説は忘れてしまった。覚えておけばよかった。どこが、いいのか。古来、多くの人たちがいろいろなことを言ってきた。そのなかで「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭にあってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である」と言ったのは、高浜虚子だ(『俳句はかく解しかく味う』所載)。私も、一応は賛成だ。つづけて虚子は、この句がきっかけとなって「実情実景」をそのままに描く芭蕉流の俳句につながっていく歴史的な価値はあると述べている。この点についても、一応異議はない。が、私は長い間、この句の「実情実景」性を疑ってきた。芭蕉の空想的絵空事ではないのかと思ってきた。というのも、私(田舎の小学生時代)が観察したかぎりにおいて、蛙は、このように水に飛び込む性質を持っていないと言うしかないからだ。たしかに蛙は地面では跳ねるけれど、水に入るときには水泳選手のようには飛び込まない。するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。そこでお願い。水に飛び込む蛙を目撃した方がおられましたら、ぜひともメールをいただきたく……。(清水哲男)


May 2552000

 蛙遠く跫音もせず暮る二階

                           芹田鳳車

語は「遠蛙」で春だが、初夏の景としても十分に通用する。でも、この人は元来が自由律俳句の荻原井泉水門だから、季語的分類に固執してもさして意味はないだろう。句意は明瞭だ。まことに森閑たる夕暮れの雰囲気が活写されている。鳳車(ほうしゃ)の代表作に、第一句集のタイトルともなった「草に寝れば空流る雲の音聞こゆ」があるが、これまた極めて静謐な情景だ。このように、鳳車句の特徴は静かな境地にある。心身を沈め澄ませて、感じられる感興を詠むのである。この場合で言うと、二階にいる家人の跫音(あしおと)にことさらに耳をそばだてているのではなく、みずからの静かな心身状態が自然に(ひとりでに)とらえた結果の気配なのだ。がつがつと素材を探し回るようなことはしていない。「雲の音」句についても、同様である。私たちが俳句の魅力にとらわれる一つの要因は、このように自分の心身を静かに保ち、そこに浮かび上がってくる何かを詠む充実感にあるのだろう。日常生活のあれやこれやを一切遮断して、心を澄ませてみたときに何が見え、何が聞こえるか。そうしたいわば自己発見の妙味に、多くの人が魅入られてきた。その典型を、私などはこの人に見る。『雲の音』所収。(清水哲男)


April 2842001

 蛙囃せ戦前小作今地主

                           中元島女

戦後しばらくの間ならば、誰もが知っていた「農地改革」を知らないと、理解できない。そこで、手元の『広辞苑』を引いてみる。「(前略)GHQの指令に基づき第二次大戦後の民主化の一環として1947〜50年に行われた土地改革。不在地主の全所有地と、在村地主の貸付地のうち都府県で平均1町歩、北海道で4町歩を超える分とを、国が地主から強制買収して小作人に売り渡した。この結果、地主階級は消滅し、旧小作農の経済状態は著しく改善された」。おおむね正しい説明だけれど、最後の件りは必ずしも正しくないよと、当時の現場の人が言っているのだ。アメリカさんのおかげで「小作」の身分から解放され、自分も夢のような「地主」になることができた。が、経済状態は改善されるどころか、以前よりも苦しくなってしまった。そういうことを、言っている。呑気な現代の辞書のライターにはわかるまいが、在来の大地主がしぶしぶ手放した土地は、多く痩せた土地だったのだ。証拠は、往時の実りの秋を迎えたときに、そこらへんの田畑を見回してみるだけで、子供にすら隠しようもないほどに明白に現われていた。肥沃な土地と痩せた土地との格差は大きい。つまり、アメリカさんは面積の「民主主義」を強制しただけで、肥沃のそれは抜かしてしまったのである。迂闊と言うよりも、ヘリコプターで種を蒔くようなアメリカとの農地の差を、彼らが理解していなかったせいである。だから、せっかくの新米地主も、農民にとっての多忙な黄金週間に、つい愚痴の一つも吐きたくなったというのが、この句だ。「蛙囃(はや)せ」には、名前だけは立派な「地主」たる自分を滑稽に突き放してはみたものの、泣き笑いもかなわぬ不安の心が浮き上がっている。上手な句ではないけれど、このように時代を簡潔に記録することも俳句の得手だという意味で、紹介してみた次第。他意はない。いや、少しはあるかな。ある。『俳諧歳時記・春』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1942006

 覚めきらぬ者の声なり初蛙

                           相生垣瓜人

語は「初蛙(はつかわず)」で春、「蛙」に分類。今年はじめての蛙の声を聞いた。その声が、まだ完全には眠りから覚めていない人の声と同じように聞こえたと言うのである。言われてみれば、初蛙の声はなんだかそのようでもあり、あれが寝ぼけ声だとすると、鳴いている姿までが想像されて、なんとなく可笑しい。この句を紹介した本(『忘れられない名句』2004)のなかで、福田甲子雄は「こんな発想はなかなか初蛙の鳴き声を聞いても思いに至らない」と書き、句の説得性については「声なり」と断定して、「ごとし」とか「ような」といった直喩の形式をとっていないからだと説明した。その通りであって、この断定調が作者独特の感性に客観性を持たせ、瓜人ワールドとでも言うべきユニークな世界を構築している。私がそう聞きそう思ったのだから、そのままを書く。下手に他人の顔色をうかがったりはしない。だから逆に、その理由を書かなくてもすむ短詩型では読者を納得させ得るのだろう。同書で福田も引用しているが、能村登四郎はこのような瓜人ワールドを指して、「瓜人仙郷とよばれる脱俗の句境で、いうなれば東洋的諦観が俳句という寡黙な詩型の中に開花した独自の句風」と言っている。わかったようなわからないような説明だが、要するにみずからの感性に絶対の確信を持ってポエジーを展開したところに、作者最大の魅力があらわれているのだと思う。『微茫集』(1955)所収。(清水哲男)


June 0862006

 太刀持ちも雇えず殿様蛙鳴く

                           阿部宗一郎

語は「蛙」。春の季語とはされているが、夏にも大活躍しているので、この時期の蛙に違和感はない。言われてみれば、なるほど。「殿様蛙」と名前は偉そうでも、「太刀持ち」もいなければ従者のいる様子もない蛙だ。作者はそれをおそらく彼は零落した殿様であって、太刀持ちを雇う余裕もないので、ひとり寂しく、しかし威厳だけは保ちながら鳴いていると解釈したのだ。「ははは」と笑っては、殿様蛙に失礼だろうか。でも、この「鳴く」は、ほとんど「哭く」なのである。笑った後に、しんとした気持ちがこみ上げてくる。実際の人間の殿様にも、こういう立場に追いやられた者も、きっといたはずだ。それにしても、トノサマガエルというネーミングは上手い。英語では「Black-spotted Pond Frog」とまことにそっけないけれど、やはり日本人のほうが、蛙に親近感を持っていたためだろう。小さい身体のくせに、どっしりと構えた座り方は、たしかに殿様のそれによく似ている。太刀持ちを従えているとしても、十分にサマになる。世が世であれば立派な屋敷住まいの身であったろうに、それが何の因果で、真っ暗な田圃で鳴いたりしなければならないのか。そんなことを思ったところで、もう一度掲句に帰ると、作者は笑ってはいても、決して嗤っているのではないことがわかる。ところで、この機会にトノサマガエルのことを少し調べてみたら、関東平野や仙台平野には、トノサマガエルは存在しないのだそうだ。東京あたりでトノサマガエルと呼んでいるのは、正確にはトウキョウダルマガエルという種類で、トノサマガエルとよく似てはいるが、斑点や脚の長さが微妙に違うらしい。一つ、勉強になった。『魔性以後』(2003)所収。(清水哲男)


February 0822008

 雪の橋をヤマ去る一張羅の家族

                           野宮猛夫

宮猛夫。一九二三年北海道浜益村に八人兄弟の末っ子として生まれる。子供の頃は浜辺の昆布引きに加わり、尋常高等小学校卒業後、鰊船に乗る。鰊の不漁にともない、炭鉱に入る。炭鉱の落盤事故で死線をさまよい、脊椎を痛めたため川崎に出て、ダンプカーの運転に従事。俳句は、「青玄」、「寒雷」「道標」に拠り現在は「街」。一九五六年に「寒雷」に初投句で巻頭。そのときの句に「蛙けろけろ鉱夫ほら吹き三太の忌」「眉に闘志おうと五月の橋を来る」。これらは楸邨激賞の評を得た。生活の中から体ごと詩型にぶつけて作る態度である。労働のエネルギーはこの作家の場合は決してイデオロギーの主張にいかない。党派的なアジテーションや定番の宣伝画にはならない。原初のエネルギーで詩型が完結し昇華する。ヤマを去るときの家族の一張羅が切なくも美しい。上句の字余りがそのまま心情の屈折を映し出す。時代の真実も個人の真実もそこに刻印される。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


February 2122009

 庭先の梅を拝見しつつ行く

                           松井秋尚

るほど拝見とは、今が盛りの梅にして言い得て妙である。さりげない表現だが、まこと梅らしい。家から駅まで、数分の道のりだけれど、私にも毎年拝見させていただいている梅の木が何本かある。夕暮れ色の薄紅梅、濃紅梅の盆梅、などまさに庭先の梅ばかり。他にも、黒い瓦屋根がりっぱな角の家の白梅。花は小ぶりなのだが咲き広がってきらきらしている。近くのお寺の境内の奥には、今年初めて気がついた青軸の梅が二本。刈り込まれた庭園の梅とはまた違って野梅めき、ひっそり自由に咲いている。梅林よりも、そんな庭先の親しさが好もしい。花の色も形も枝ぶりも実にさまざまな梅の、長い花期を楽しむうち、冴え返ったりまたゆるんだりしながら、日は確実に永くなってきている。サラリーマン時代に、会社の研修の一環で俳句を始められたという作者。〈勤めたる三十年や遠蛙〉〈入社式大根足のめづらしく〉『海図』(2006)所収。(今井肖子)


March 3132009

 春荒や水車は水を翼とし

                           菅 美緒

書のうえでは春の嵐と同義にされる「春荒(はるあれ)」だが、心情的には「嵐」とひとくくりにされるより、もっと春の持つ爆発的なエネルギーを感じさせる独特な荒々しさを持っているように思う。掲句では、激しい風にあおられながら、水車のこぼす水がまるで白い翼を持つ生きもののようだという。村上春樹の小説『納屋を焼く』(新潮文庫)に「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がする」という印象的な文章があった。そこにはあらゆる種類の暗闇が立ちこめていたが、掲句では水車が能動的に羽ばたくことを選び、大空へ飛ぶチャンスをうかがっているように見える。それは人をやすやすと近づけることを許さない「春荒」という季題が、水車に雄々しい自由と自尊心を与えているのだろう。〈子のごとく母を洗へり春の暮〉〈交みゐて蛙しづかに四つの目〉『洛北』(2009)所収。(土肥あき子)


March 2332010

 薄目して見ゆるものあり昼蛙

                           伊藤卓也

視ではなく、薄目でなければ見えないものがあるのだろう。坐禅でいわれる半眼は1メートルくらい先に目を落し「外界を見つつ、内側を見る眼」とあり、なにやらむずかしそうになるが、そこは「昼蛙」の手柄で、すらっとのんきに落ち着かせている。蛙という愛嬌のある生きものは、どことなく思慮深そうで、哀愁も併せ持つ。雀や蛙は、里や田んぼがある場所に生息するものとして、人間のいとなみに深く密着している。ペットとはまた違った人との関係を古くから持つ生きものたちである。そのうえ鳥獣戯画の昔から、人気アニメ「ケロロ軍曹」の現代まで、蛙はつねに擬人化され続け、「水辺の友人」という明確な性格を持った。こうして掲句の薄目で見えてくるものは、やわらかな水のヴェールに包まれた「あれやこれ」という曖昧な答えを導きだし、それこそが春の昼にふさわしく、また蛙だけが知っているもっとも深淵なる真実を投げかけているようにも思う。他にも〈蛍を入れたる籠の軽さかな〉〈見つめをり金魚の言葉分かるまで〉など、小さな生きものを詠む作品にことに心を動かされた。『春の星』(2009)所収。(土肥あき子)


April 2142010

 あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ

                           三好達治

暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0652011

 なにひとつなさで寝る夜の蛙かな

                           上村占魚

鳥諷詠というのはどこかで自己肯定に通じると強く感じることがある。自然は普遍だ。普遍のものを求めたければ、「小さな我」の世界を大きく包み込む造化に眼を遣りなさいという論法はどうも嘘臭い。小さな我を捨てるということが、類型的である我を肯定する言い訳になっていると感じるせいかもしれない。ちっぽけな我とは一体何者なのかというところをまず攻めるべきではないか。なにひとつなさないで寝てしまう我に向けられる自己の眼は、いたらない小さな自分を告白している。それは類型的自己からの覚醒といってもいい。『鮎』(1946)所収。(今井 聖)


March 0832015

 菜の花の風まぶしくて畔蛙

                           森 澄雄

蟄(けいちつ)を過ぎると、蛙は冬眠の穴から出てきます。しかし、散歩する人は、かなかな気づくことができません。鳴かず、跳ばず、不動の石のようにじっとしているからです。蛙は、穴から出てきたものの地上の生き方をすっかり忘れています。自分が跳べることも、鳴けることも忘れていて、その生を初めからやらなければなりません。私は若い一時期、蛙の観察に凝っていました。三月上旬に出会った一匹のヒキ蛙は、一歩を踏み出すまでに三十分ほどかけていました。舞踏に微足という超スロー歩行訓練がありますが、啓蟄の蛙は微足の師匠です。厳寒を越えた田んぼの畔(あぜ)は、枯れて灰白色の色あいですが、一日ごとに草の芽の緑もふえ、「畔青む」という晩春の季語もあります。掲句の畔には菜の花が咲いていて、花が風に揺れると、一面黄色くドローイングされるような光景です。暗黒の穴の中、ひと冬眠っていた蛙にとって、あまりにもまぶしい春の黄色い光です。作者は、目を細める蛙を見て、自身もまた目を細めているのでしょう。『花眼』(1969)所収。(小笠原高志)




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